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| VOL.1 |
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| 吹奏楽と山登り |
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高校生であった僕は吹奏楽部に籍を置き、吹奏楽の練習に明け暮れる毎日で、早朝練習から始まり楽譜が読めなくなるまで毎日欠かさず練習ばかりしていた。 ある年の夏休みが終わるころ、みんなで勝浦川の河口へ泳ぎに出かけ、一日中飽きもせず昼メシも食わずに遊んだ。 夕方から体がゾクゾクしだし、治らないので病院に行き検査。なんと疲れから腎臓を患っていた。 1か月あまり入院する羽目になり、退院したらすぐに「中間考査試験」・・・手も足も出ず散々な成績××× その頃から「体は鍛えなあかん!」と思うようになり家の裏山(恩山寺,芝山,中津峰など)に登り始めた。 そのうちクラリネットやトランペットを持って毎日、日ノ峰山に登るようになった。 山で吹く管楽器は、すぐに音が下降線をたどり下に響く。下に落ちないまっすぐな音を出すことを心がけるようになり、 ロングトーンも1分30秒は音程が狂わないようになった。おかげで肺活量も6000をオーバーできるようになり、これが僕の山登りの基礎になった。 |
| 山仲間との出会い |
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学校を卒業して兵庫県宝塚市仁川の会社の寮で過ごすことになった。 日曜日には、朝一番の汽車の切符を大まかに買い、行商しているおばちゃんから隠れた名所や「こんなものは見ておいたほうがいい」などの情報を聞き出し、途中下車をくりかえしながら目的地を決めない旅を楽しむようになった。 またその頃、六甲山などに甲山や仁川方面から丸池を経由し登っていた。 会社の残業が終電車に間に合いかねるほどの日が続き、帰ってもろくに夕食にありつけない。 薄給の僕には、夜食を食べる金もなく昼食だけの生活・・・とうとう腎臓病を再発(・_;)、また半年間の入院生活を余儀なくさせられた。 退院と同時に徳島に転勤となり、体調が戻ってから故井形氏や同僚と再び山に登りはじめた。 そして初めての冬山(東の川〜瓶ガ森〜石鎚山縦走)で敗退してから、徳島勤労者山の会(現徳島山友会)に入会し、山の基礎を最初から学ぶことにした。 そこで、Y氏(現歩け歩け協会会長)、S氏(当時バリバリの現役リーダー)、M氏(くそまじめな山男)、SE氏、A氏、T氏(現山友会会長)、故Y氏(当時会長)、故G氏などなどたくさんの岳友に恵まれ、「道草」というグループを結成・・・ あちこちの山へ出かけた。途中から僕は職を変え、大阪で生活するようになっていた。 |
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| 技術向上への第一歩 |
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大阪での生活が半年くらい経った頃、「ニュージーランド海外遠征」の話が持ち上がり、すぐさま参加を表明! 休日は六甲山通いを始めた。ひとりでするトレーニングはたかが知れている。徳島へ帰ってみんなとロッククライミングをするが、常のパートナーを探す毎日であった。 そんなある日、梅田の地下街で偶然、大阪に勤務しているA氏と出会う。僕の夢を語り説得してパートナーとなってもらい、毎週芦屋のロックガーデン通いが始まった。 また暇を見つけては、長野県の新雪荘に出向き、当時のアドバイザー丸山氏にアドバイスを請うた。 そしてその頃、大阪にすごい山男がいるという噂を聞いて白馬山荘にも通う。そこで出会ったのが辰野勇氏(モンベル創設者)だった。 そのときの印象は、おかっぱ頭に無口な山男で淡々と道具の手入れをしている変わった人という感じだった。 一言「夢をどこに置くか・・・それを実現しようと思う気持ちと努力がどこまでできるかだ」とアドバイスをいただいた。 今、現在でも一番お世話になっている人だ。 またロッジの梅新店にRCCの松浦氏が勤務していたので、道具類のアドバイスをいただきながら装備を揃えていった。 今の装備とくらべると、本当に質素なものだった。 遠征の前に一度、穂高で合宿をやろうということになり、A氏,SE氏の3人で実行したが、その時はお笑いであった。 まず、装備はラクダの下着上下にウールの山シャツ、ナイロンのWヤッケ、ピトンの革靴にタニのアイゼン12本爪、ピッケル、バイルなど。 食糧計画は、3人で生肉5kgにアルファー米、生野菜他。荷物は、一人当たり30kgを担いだ。 雪のため、奈川渡から歩いての入山となり、坂巻温泉に着いたのが3時頃になった。温泉前の片隅でテントを張り、焼肉をたらふく食って明日の英気を養う。 明くる日、あいにくの吹雪で歩行もままならず真っ暗な釜トンネル内へ入る。 ヘッドランプをつけていても頭をツララで打ちつけるし下は氷柱になってひざは打つし・・・ 最初からアイゼンをつけておけば良かったのにスリップして尻もちつくわで散々だった××× 出口はムシロで覆われていて、トンネルを塞いでいる雪を除け最上部から出た。 そこは雪崩地帯で、時々遭難者が出ていたので、上部を見ながら緊張の連続だった。 フラフラになりながら帝国ホテル前まで到着。白樺林の中に早々とテントを設営し、ただひたすらに肉を食った。 木枯らしの吹く上高地でのテントの夜は、ローソク1本で暖をとり、明日アタックする西穂高への思いを胸に抱きひざを抱えながら眠りにつくものだった。 ここ近年にない大雪で、下山してから聞いた話だが立山連峰で遭難騒ぎがおきていた記憶がある。 アタック当日、すべての荷物を西穂山荘まで持ち上げることにし、急斜面をただひたすら3人でルート確認しながらワッパ(カンジキ)を着けラッセル。 重い荷物と3人だけのラッセル・・・・・本当にしんどかった。山荘は雪の下に埋もれ、盛り上がっている場所を探し入り口を確認する。 当時の山荘は今にも朽ち果てそうな質素な小屋だった(今は焼け落ちて新しく建て替えられている)。 素泊まりをお願いするが、何か慌しくよそよそしい。通された部屋は、窓ガラスが割れ小雪がいたる所に溜まっている。 山小屋に泊まるのは初めてで「素泊まりだし山小屋ってこんなもんかな・・・」と思い込んだ。 夕食の準備は外でしてくれとの事で早々と済まし寝ることに・・・寒い・・・本当に寒い・・・ 「これならテントの方が良かった」グチをこぼしながらムリヤリ眠る・・・やっぱり寒い・・・ 朝方異様に寒い・・・起き上がろうとしたら冷たいシュラフカバーはコチコチに凍って、上に10cmほど雪が積もっていた。 装備も何もかも雪で濡れてしまった。 黙って部屋でマナスルのストーブ(コンロ)に火をつける。ゴウゴウという音で心が休まる。心身ともに癒される。 必要装備を乾かしながら、朝食・・・・・すぐに出発の準備にとりかかるが小屋の親父さんに「今日は天気が悪いから、アタックはやめて帰れ!」と言われた。 親父さんの言うとおり、外はガスで視界も悪く横殴りのブリザードが顔に当たって痛い。 数人の山男たちが慌しく出入りしていたが、気にもとめず独標まで行って下山する。 入山時より荷物が減っているはずなのにやたら重い。テント装備が水を含み、減った分より重くなったためだった。 下りは尻セードで快調!快調!!坂巻温泉に到着し一息つく。残りの肉3kgほどを温泉に差し入れて荷を軽くし、奈川渡まで・・・・・ あー、しんどかった。憧れの穂高にお目にもかかれず疲れがドッと出た山行だった。 反省しきり・・・このとき実感したのが「軽量・コンパクト・スピードそして体力と技術」これすべて!!! そして、毎日の生活が変わった・・・ |
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